舞踊作家協会主催の 『宮沢賢治の世界』を終えて

2019年5月1日に舞踊作家協会主催の『宮沢賢治の世界』が閉幕した。


 『宮沢賢治の世界』というタイトルは茫漠として先が見えない。
生前に刊行された作品は、『春と修羅』と『注文の多い料理店』のみで、新聞や雑誌に寄稿された作品はあるものの、ほとんどが草稿からだそうだ。
 なぜか、宮沢賢治の人格をなんとなく我々はイメージできるのだけど、どうしてだろうか。あの写真が強い印象をもたらし、どうしてか作品、それ自体を宮沢賢治と同化してしまっているのだ。
あの語り口とあの動物たちの佇まいや、もっといえば『グスコーブドリの伝記』のブドリが一人島に残るところが象徴的で、また、
最後に、

「 たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪たきぎで楽しく暮らすことができたのでした。 」

とあり、この「たくさんの」は「春と修羅 序」にも出てくるもので、

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから)

この「わたくし」と「みんな」の考え方が、いまの「多様性」という言葉では片付けられないものがここに含まれているのだと思います。

むしろ、いまは、「多様性」もなく、一つのカタチのなかに、多様性がつめこまれている感じがして、宮沢賢治のいうところにはなかなかありません。

さて、踊りの話しに戻ると、宮沢賢治の世界を踊るとなると、どんなアプローチが考えられるかという話をしたいと思います。

まず考えられるのが、宮沢賢治の作品をする。このやり方もいくつかあります。
・ストーリーをなぞる
・言葉を抜き、踊りと言葉と格闘する、あるいは同化する
・言葉を抜き、そこからイメージし、イメージを踊りにかえる
・ただただストーリーのインスピレーションを踊る
・自分の技術を用い、ストーリーぽっくみせる

さて、こんな風にかくと意地悪く思えるかもしれませんが、そうでもなく、なぞろうとしても、作品を演劇にし、何かの役を当て、おのおのセリフをいいながらすすめていくものではないので(たとえ、このような演劇でも大変しんどいことです)、宮沢賢治の世界は茫漠としてしまうのではないでしょうか。

ぼくのアプローチはあとで話すことにして、
つぎに観客の立場から『宮沢賢治の世界』をみてみると、これは逆に茫漠とはしていない。ひとりひとりにこれが「宮沢賢治」だというものがなくても、彼らには宮沢賢治がいるのです、おのおののなかに。
 もしいなければ、それは、知らないというだけで、「〇□太郎」でもなんでもいいわけです。記号としての名前ですから。

観客は宮沢賢治の何を追うのでしょうか。
また、これとは別に、どんな舞台でも言えると思いますが、舞台芸術として成立しているか、そんな大仰な物言いをしなくとも、ここで起こっていることをみる(立ち会う)わけです。
この力動があり、舞台のなかの世界で起こる力動、観客と舞台の力動、間、あるいは隙間、宮沢賢治もそこに大きく横たわる。

今回、ぼくは雑賀淑子という舞踊界の巨匠と一緒に舞台に立つわけです。フランスへ留学し、ダンスを学び、御年86歳、数十年ダンスをしてきている人、ただしているだけじゃなく、作品も作り続けていて、なおかつ、指導をし、舞踊作家協会も切り盛りしているという人としても大きい人です。

ご本人はそんな雰囲気を一切出さず、ただただ、ダンサーとして、一人の人間として気遣いを忘れない人でした。

そんな中、ぼくはどのように『宮沢賢治の世界』、『序文そして雨ニモマケズ』へアプローチしたのか。
2つの方法を考えてみた。
まず、『宮沢賢治の世界02』で書いたように、実際に、イーハトーブ(岩手)へ行き、宮沢賢治の面影を訪ねること。
そして、宮沢賢治の『春と修羅 序』を覚え、毎日、唱えること。
 それが、この舞台にいい効果をもたらすのか。いい踊りになるのか。
そもそも、そういう目的でイーハトーブへ行くのか。
まずは行くとということが目的でした。宮沢賢治の吸っていた、感じていた空気、場所へ行き、そこで、感じることを感じる。それが目的です。

それが目的と言われても・・・となるかもしれないけど、宮沢賢治の本を読んだり、踊ったり、できることはなんでもしたいと、芸術をするということは全人間的にいきることだと、そもそも、宮沢賢治やそれを踊ることなんてわからないことだらけで、わからないことを仮定はするけども、実験でもないんです。

確かに、そんな目的らしいことのないことに、時間とお金をかけるのは、とても割に合わないし、もっと確かなことを想定して、それで、赴くのがもっともなことなのかもしれない。

だけど、それって、目的は叶うかもしれないけど、つまらないなぁ。

『因果の時空的制約』を越えたいとぼくが想定するちっぽけなことなんて、どうだっていい。

踊るときは、そんなファンタジーって言われるようなことを半ば信じて、
踊りたいと思っている。