クリント・イーストウッドの最新作『運び屋』について

クリント・イーストウッドの最新作『運び屋』、
10年ぶりということで、期待に胸を膨らませて、映画館へ行った。
ぼくはマカロニウエスタン世代ではなく、最初にクリント・イーストウッドの映画を見たのは、『クロコダイルダンディー』だった。

『クロコダイルダンディー』 は、1~4まで作られているから、一応、TVで全部見たように思う。TVで見るときは日本語の吹き替えで、
『クリント・イーストウッド =山田康雄』で定着していて、ルパン三世と同じ声だと知っていたが、違和感はなかった。むしろ、ルパンの声と同じだったので、親近感がわき、 『クロコダイルダンディー』 は当時、子どもだったぼくや仲間うちでも話題にのぼった。

次の記憶は、『マディソン郡の橋』(1995)で、メリル・ストリープとの熟年恋愛ドラマとして話題となったが、見たときは20代であったが、映画として面白かった。最後のシーン、雨の中、旦那と車に乗ったメリル・ストリープが逡巡し、結局日常生活に踏みとどまるところはグっとくる。

クリント・イーストウッドは監督として話題になった。
『硫黄島からの手紙』(2006)と『父親たちの星条旗』(2006)だった。2003年から戦跡を巡り踊っていたので、戦争の映画がこれ程話題となったのに、どこか冷めていて、特に『硫黄島からの手紙』については、「どうして日本人が作らないのか」と憤りを覚えていた。今となっては、2003年からイラクへの武力行使が始まり、日本もそれにかかわったが、アメリカは更に深い傷を負った…当時は負おうとしていた。そこにこの映画を製作したのだと考えられる。

どんな傷を負ったのか、『グラン・トリノ』(2009)は描いている。ぼくはクリント・イーストウッド監督で一番好きな映画で、『運び屋』の予告編を見て期待したのは、 『グラン・トリノ』を想起した。

『グラン・トリノ』 は 、戦争映画である。戦争をしていなくても、戦争は日常生活に残り続けるという意味で、ドンパチしなくても戦争は描かれる。
むしろ、生々しくさえあった。ラオス人のモン族の青年タオとの交流が印象に残る。二つの戦争がこの作品にある。一つはコワルスキーの朝鮮戦争と青年タオのベトナム戦争である。

どうしてラオス人のモン族の青年がアメリカにいるか、すぐに理解できた。

当時読んでいた書籍、 竹内正右著『ラオスは戦場だった』である。
<ベトナム戦争の時アメリカに協力したため戦後共産側から迫害され、23万人がアメリカに移住したモン族 (引用 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784839601782)>

この二つの悲劇を背景に、更にアメリカの銃社会の悲劇を、コワルスキー(クリント・イーストウッド監督)はラストシーンに抜群に格好いいアメリカンジョークを言うがごとく描く。

主人公の コワルスキー は、フォードの自動車工を50年勤めあげたポーランド系米国人で、朝鮮戦争へ出兵し、その影と、妻に先立たれたという設定である。

ここで、『運び屋』に話を戻すと、
「これからは、ネタばれなので、観ていなくて、内容を知りたくない方は、ここまでにしてください。」

『運び屋』の主人公にも、退役軍人という設定があり、またラストシーンに繋がるのだが、妻に先立たれてしまうという『グラン・トリノ』との共通点がみられる。
この映画の冒頭で、 主人公が育てているデイリリー(ユリ科の) で賞をもらうシーンがある。クリント・イーストウッドの顔に違和感を感じた。何か整形しているような感じに見えた。だけど、すぐに12年後というテロップが出て来て、納得。

宅配人、運送屋じゃなく、運び屋であるから、悪いものを運ぶことを意味している。麻薬や銃、今回は麻薬である。コカイン?覚せい剤? 白い粉だ。

さて、この映画で二つのことを期待していた。
一つは、 『グラン・トリノ』 を想起させられたから、社会問題を地味に扱うのではないか。
二つ目は、サスペンス的要素。誰が犯人か?何を運ばされるのか。

期待の一つ目は、主人公が退役軍人という設定で、退役軍人の集まる場所も出て来るのもあり、日常生活というコインの裏には必ずと言っていいほど戦争がある。マイケル・ムーア監督『 ボウリングフォーコロンバイン 』を観たときに興味深くアメリカを再認識したのを思い出した。
現在、戦争体験者の高齢化により、戦争というものの実体験が失われつつあることを運び屋でもさりげなくあらわしていた。

日本では戦争と言えば第二次世界大戦だが、アメリカでは朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など、どの戦争かと戦場でない限り映画を見てもわからない。だが時代背景をみればいい。別に説明はいらない。そこを考え、推理するのが法悦なわけだから。

二つ目に期待していたことは見事に裏切られ、すべては関係性に集約されていた。それこそメキシコからの移民問題もしかり、家族問題もしかり、関係の希薄なものから深く濃くなっていく過程がブツを運んでいく過程で築かれていく。

そして、大事なブツを手放して、家族、奥さんとの関係を取り戻す、いや、むしろ、90歳にしてはじめて気付き獲得するのだ。

『運び屋』は何をどこへ運んだのか、

わたしはそれを受け取り

わたしはそれを運んだ