ぼくらはなぜか心地いい

子どもと一緒にいると、(それは一日中じゃなくても)大人と全く話さずに毎日、一緒の時間を過ごしていると、(これは稀なことだが)
なんだか、日常生活が歪んでくる、(なんというか映画館でその世界に埋没するような)

その最中、うちのちかくの貯水池の裏にコスモス畑があって、次の日の台風が来るから、見どころだという話を聞いて、家族で行ってみたときだった。
裸足になり、公園の中を歩き、貯水池へ行き、コスモス畑にたどり着いた。

コスモス畑のコスモスたちが、花ひとつひとつというよりも、花の部位ひとつひとつが分解されて見えていて、たとえば、花弁、子房、がく片、花軸と、それぞれが合わさって花になるわけだけど、それがわかれているように見えてくる。

コスモス畑

あとで気づく、あっ、そうか、コスモス畑にいたんだと。

子どものおかげだと思う。
なぜなら、特に、6歳の長男は「どうして?」、「なんで?」といった疑問をなげかけてくる。こちらはそれに正確に答えようとする。間違ったことはなるたけ言わないように注意を払い、その疑問に真摯に答えようとする。答え方は、なるべくかみ砕く、子どもたちがわかる言葉で、よくよく考えると、なかなか答えられないから、歴史的背景やそのものの細部を一瞬で考える。
おそらく、そんなことを繰り返しているからだったとおもう。

そして、三日ぐらいすると、その細部化して答えることが億劫になるし、もっとすんなり行くし、彼らから質問や疑問もなくなってくる。
3歳の次男と2歳の長女は元々、疑問も質問ないから早い。

ぼくは彼らだし、つまり子どもだし、子どもはぼくになるし、
土や木にもなるし、川の水に足をつけると、その感触になるし、
それらとぼくらは共有し、そのものになる。

だから、ぼくらはあまり会話をしなくなる。

だけど、ぼくらはなぜか心地がいい。