幽霊について01 - 『宙吊りというサスペンス』 と『レヴィナスを読む』-

身体はありつづけるのだろうか。

ダンスの犬 ALL IS FULL『宙吊りというサスペンス』に立ち会って、またその頃から読んでいる 合田正人著『レヴィナスを読む』で考えていること。

ぼくのなかで幽霊から人、人から幽霊へ、
どのようにこの身体で行えるのだろうか。

深谷正子さんの作品には、それがあり、レヴィナスにもみられる。

ダンスの犬 ALL IS FULL『宙吊りというサスペンス』
2019年5月24日(金)
会場:BUoY
作・演出:深谷正子
出演:佐藤ペチカ、斉藤直子、梅澤妃美、秦真紀子、入江淳子、三浦宏予、玉内集子、細川麻実子、友井川由衣、曽我類子、オカザキ恭和、津田犬太郎、森重靖宗(チェロ)

今回の作品全体は荘厳で、ダンサー個人は感性の鋭敏さが強調され、
物と人という対立から、空間と物と佇む人の3者構造になっていて、
演出構造もそれに伴い、3部。
記憶があいまいなのである種のぼくの創作になっている可能性があるが、ぼくがこの作品をこのように感じている。

衣装は白いワイシャツに赤いフワッとしたスカート。
1は生音とダンサー個人にゆだねられていて、踊り手一人一人の個の動きがあらわれてくる。チェロの弾き手 ・森重 が移動していくのは場を浄化するように見え、チェロを弾かず歩いているときに神秘性をうむ時間となっていた。
最後、ダンサーは舞台奥にあるお風呂へ溶けるように消えていった。

1と2の間に、暗転の中、ノイズの大音量が3分以上なり響く(実感として)、
結構長い。この間、耳が痛くなるほどの音量の大きいのもあり、トランス状態となり、暗闇の中に1のダンサーが踊っている残像が見える。
そして、2へ以降する。

2は舞台奥のお風呂から出てくる。スカートはなく、白いワイシャツのみで足は肌が露出している。スプーンとフォークの銀のかたまりを移動する。金属製の音とダンサーにぶつかるのではないかという危機的暗示が付きまとう。
ここでも行為は同じだが、ダンサー個々の身体がみえる。
ダンサーの意志もみえる。銀の食器の量もみえる。落とすスピード、落とし方、物にたいする愛情や想いまではとどかないがそれに近い『差延』がみえる。

3の始まりは、ワイシャツを上へずらし顔を消す。
それが列をなしているから、戦地へむかう兵隊にみえる。
生と死という使い古された言葉、生と死を漂うという
安易に絡め取られてしまう言葉を使わないで
幽霊と言いたい。

音と記憶、水、土、草(青臭いにおい)

非透明な幽霊は四谷怪談に登場する幽霊とはちがい、
怨恨はもちろん、何かの想いすらない。

「『マクベス』に依拠しながら、レヴィナスは亡霊を「大地の泡」と呼び、亡霊を在り処を「存在と無の境界」と呼んでいる。」(『レヴィナスを読む』P144)とある。

最後に顔を出す。
そして、
断続的に 鉄器を落とした音に驚く。そのたび、ダンサーがとまる。
そして、公演はおわる。


身体はありつづけるのだろうか。
わたしが生活をしていて、わたしがなにかものを食べたり、歩いたり、思考したりしているときに、わたしはいるのだろうか。
おそらく、いない。

レヴィナスの強制収容所の経験からくる言葉と深谷正子の『宙吊りというサスペンス』は、現代の 日常をおおう 窮屈な様相を 会場のBUoY という特殊な場所をダンサーの個性とともにつくりあげ、見事な『差延』をみているものにつきつけた。
すくなくともぼくには。

おそらく、

虚無のなかにいる。
虚無から顔をだし、顔が消える。
われわれは、われわれの主体性や
自己現前しないとき、幽霊となる
幽霊は肉体の死で現れず、
主体性をもたない。
空っぽの器官となる。