息子がラジコンを買ってもらったと、喜び勇んで、公園へ行き、走らせた。
ぼくは、それを眺めながら、どこが面白のかといった風に、ここじゃないどこかへ思考を遊ばせていた。
「一緒に走らせようよ!」息子は無邪気に僕にコントローラーを渡した。
さあって、操作は簡単だ。
左がアクセルとバック、右がタイヤの向きを左右に振るだけのもの。
よし!コントローラーをもったぼくは今までの心持ちを変えて、ラジコンを楽しんだ。
赤い車がビュンビュン走り、息子は足を拡げ、股をトンネルのごとくして、ぼくのラジコンを楽しませてくれた。
面白い・・・だが、何が面白いんだろうか。
すぐに小学生のときにやったファミコンのこと、スーパーマリオのことを思い出した。横スクロールで右へひたすらダッシュさせて、ゴールへ向かう。
コントローラーを持ちながら、初心者は身体も動いてしまう。
指だけの操作で、いろんなことを操作していくゲームに自由を感じたものだった。
いつしか、それに疑問を持ち、ぼくは時間の無駄だなぁと感じるようになった。
コントロールできないものに関心を寄せ始めたからだと思う。
それは、後々、考えるようになったのだが、当時、高校生のときにはゲームに関心をもてなくなり、大学生のときには、テレビゲームに触れなくなってしまった。
じゃあ、どうして、ラジコンは楽しめたのか。
ちょっとしたことなのだが、操作を間違えて、思った通りにならないというのではなく、道路に落ちていた葉っぱや煙草の吸殻で動きがとまったり、普段気付かない凸凹道で方向が転換することがあり、
そのときに、ぼくはニヤっと笑ってしまったのだ。
どういうわけだろうか。
ぼくは決して失敗しようとか、上手くいかないほうがいいなんて思っていない。むしろ、上手くいけばいいと思っている。だが、この僕が予想していない、予想できない偶然に出会ったときに、ワクワクするのだ。
ゲームに、自由を感じる人もいるだろうが、
ぼくはこのコントロールできる世界がコントロールされている世界に感じてしまったのだ。
決まりきったレールを作り、そこで繰り広げられる世界にいても、まったく面白くない。牢獄のなかで、さあ、自由に過ごしてくださいと言われているようなもので、だって、牢獄じゃないかって。
だけど、牢獄って気づかなければ、自由なんだから、それでいいじゃないかと、
ぼくは決して自由だと思っていない。
むしろ、ぼくも牢獄にいると思っている。
だけど、牢獄にいるっていうことを自覚するのと、しないのとでは違うのではないか。
5歳の息子は、操作がうまくできない歯がゆさもあり、ラジコンよりもお気に入りのパペットをいくつも持ち、そこで、自分の世界を作り、遊んでいる。