ここ10年近く、レイテ島へ行きたかった。いや、フィリピンを含めば、もっと前からフィリピンへ行きたかった。
レイテ島を深く知る切っ掛けは、大岡昇平著『レイテ戦記上・中・下』を読んでからである。それ以前には、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還を果たした小野田少尉(小野田寛郎)。小説を読むずっと前に、小野田さんのことを知っていて、本でも読んでいた。知ってから数年経ってから、帰還できずに亡くなった日本兵の遺骨がジャングルに多く残されていることを知った。そして、それは見つかっても、そのまま持ち帰ることはできず、正規の手続きに基づいて、収集することを知った。
いまは閉廊してしまった東京・神田のギャラリーのSさんと世界中の戦跡を巡っているという話をしたら、すすめられたのが 大岡昇平著『レイテ戦記』 だった。おそらく、勧められなかったら読まなかったであろう。その後、『野火』も読み、映画も観た。
そして、10年近くたち、それが現実にレイテ島へ行こうと決意したのだった。
舞踏することが目的じゃなく、白塗りも、衣装も何も持たず、それこそ直前までレイテ島へ行くこともためらうほどだった。
少し前に流れたドラッグや犯罪の取り締まりが激しいというニュース、それにともない刑務所が人であふれかえっている映像を見たからだった。
だが、行った。
レイテ島の滞在は、5時間ぐらいだろうか。
短くてもいい。とにかく、あの地を踏みたい。
セブ島の港から船で行くルートを選ぶ。朝6時の船に間に合わず、10時半まで4時間半待った。
この待合所には、按摩さんがいて、マッサージしてもらうことができる。
30分で100ペソと安い。100ペソは日本円で250円ぐらい。
わたしもやってもらったがレベルは高かった。30分だから時間もたっぷりある。日本人でも高く請求されることはなかったから、是非、フェリー乗り場にいったらやってみてほしい。
ボッタクリはフィリピンでもヨーロッパでもどこにでもいる。わたしもボッタクラレタ。チケットカウンターはフェリー乗り場の外にある。そこは長蛇の列だった。そこがチケットカウンターかもわからない。どこでチケットを買えばいいのだろうか。時間は何時か。一人、たたずんでいると、急き立てるように、ここじゃない。はやくパスポートを渡せ、いま船が出てしまうぞ、お金は1000ペソだ!と、まくしたてられる。
アドバイスするとしたら、渡航する前日にチケットを取りに行き、出発の一時間前につくようにすれば焦ることなく渡航できる。
もし、このような状況になったら、あるいは、このような人にあったら、読者諸君は絶対に、この話にのってはならない。 日本ではわたしは待つのが嫌で、高いのを覚悟で買ったが、結局、上記の通り、数時間待たされた。 たとえ数時間待たされても、しっかりと正規のルートで買うべきだ。
だが、だまされるのもまた今の時代で終わるかもしれない。タクシーもネットで 料金も表示され、自動で呼ぶことができるようになっている。どんどん自動化、AI化進んでいくと野で生きていく人たちがいなくなるのだろう。
そんなことを日々考えているからか、いや、あまり深く考えていないからか。旅で騙される。
フェリーでセブ島からレイテ島のオルモックへ。
ほかにも弁当やハンバーガーが売っていたから、どこかで買っておく必要はないだろう。
レイテ島に着いた。わたしは宿泊するかどうか、タクシーかバスか呻吟していた。ガイドブックには詳しく乗っていなかったし、ネットの情報もそこまで詳細な情報は掲載されていなかった。レイテ島には戦跡がたくさんある。わたしは一つに絞ることにした。
リモン峠 と その途中の 工兵第1連隊の碑 。
バスでもリモン峠を通るが、途中で降りて、また戻ってくるのは大変なので、高いがタクシーにした。女性一人ではタクシーで山を行くのは怖いし、まあ、女性一人でレイテ島へ行こうと考える人もいないだろう。そして、わたしもガイドなしで女性を連れて行こうと思わない。何が起こるかわからない。一人ならば貧乏旅行でどうなっても自己責任だ。
値段は書かないが、タクシーにした。
タクシーのおじさん。オルモックの港に毎日出ていると思われる。お名前は忘れたが、大学生の娘さんが一人と社会人の娘さんが一人いると言っていた。ずっと話をしてくれて、フィリピンの事情や家庭のことなどはなしてくれた。下記の石碑にも日帰りで間に合うように行ってくれた。 感謝。
ここ 『工兵第1連隊の碑』 では祈るにとどめ、踊るのは控えた。
工兵第一連隊の碑には、石碑を見守る人がいて記帳をし、100ペソ募金をする決まりがあるとのこと。子どもたちも集まり写真を撮ったが、物乞いをすることもなく好奇心で近寄ってくれた。こういう子たちにお菓子とかなんか用意しておけばよかったと思った。英語で話しかけたが、反応がなかった。こそこそと子どもたち同士で話していたがわからない言葉だった。おそらく、 ワライワライ語 、 セブアノ語 かと思われる。まだ彼らは小学校未満だろうから英語は使ってないのだろう。
余談だが、フィリピンは英語教育はとても発達していて、発達というよりも小学校から主な科目は英語で教わる(フィリピンの数人から聞いた)、英語はネイティブといってもいい。ご存じの方も多いと思うが、日本のオンライン英語はフィリピン人が多く、日本の英語留学もフィリピンが盛んで、いくつかの日本の会社がフィリピンで学校を作っている。彼らもそのうちネイティブのように英語を話するようになり、日本人を教えるようになるのだろうか。
さて、話は戦跡に戻って、
次にわたしが向かったのは、 リモン峠 だ。
看板があり、看板には英語で
JAPANESE SHRINE
(BREAK NECK RIDGE)
SITE OF ONE OF THE
BLOODIEST BATTLES IN
THE LIBERATION OF THE
PHILIPPINES
とあった。
SHRINE、神社かと一人、つぶやく。
看板のわきに階段が見えた。
鬱蒼とした南国の木々に覆われた細い階段。
タクシーのうんちゃんには、そこで待っていてほしいと告げ、
一人上った。
階段を登りきると、まず、慰霊の石碑が、つぎに木で作られた小屋が目に飛び込んできた。どちらも、南国のジャングルには違和を放ち、だが、ぼくにはそれがどういう想いで作られて、どういう場所に建てられているのかを推して知ることしかできず、ただしばらく畏怖の念とやっとここに来られたとの安堵の気持ちで階段を登り切ったところで、しばらくじっと止まっていた。
これまで、わたしはサイパン島のバンザイクリフ、9.11のニューヨークのWorldTradeCenter、第五福竜丸、様々な 戦跡や戦争関連の場所に立ち、そこで踊ってきた記憶があとからあとから押し寄せてきて、
そんなことは今までないことであった。
南国特有のパイナップルとココナッツの臭いがぼくの体にまとわりついたような気がした。
戸惑いにとりつかれないようにして、いつも戦跡に行くとそうしているように、身をただした。
まず、小屋へ行き、中央にある『陸軍第一師団戦没者英霊之碑』に手を合わせた。
石碑にも手を合わせた。
祈りのあと、音楽も衣装も着用せずに、踊った。
だけど、ここに来るまでのフェリーの出発までの時間。
島までの3時間。
小説を読み、レイテ島へ行きたいと思うようになった時間。
それから、『世界中が劇場であるプロジェクト』という戦跡を巡った時間。
どの時間が欠けても、リモン峠の頂上へはたどり着かなかったであろう。
たしかに、ここに立ち、踊ることができた。
フィリピンの戦跡は、多く、わたしが言ったところは一部に過ぎない。
世界中には、まだまだ多くの戦跡があり、
わたしが行っている場所は、第二次世界大戦の戦跡ばかりであるが、
現在も戦争中のところもある。
これからも踊り続けていきたいと思う。
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下記は、フィリピンの戦跡に関したサイトです。
ご参考までにどうぞ。
◎セブ島留学レキシジン
とても内容が濃く、分野も多岐にわたる。
歴史を知るなら、こちらのサイトがおすすめです。
◎サマール日記
下記、URLのブログは2011年のものらしい。わたしの写真と比較してみるとわかるが、2019年11月現在と違い、石碑が新しく傷みがない。
8年しか経てないのに、ここまで変容するのかと驚いた。
◎ 戦没者慰霊碑巡り
フィリピンだけはなく、いろいろな国の戦跡を巡り、マップ化している。
戦跡を巡るものとして、参考になる。