巡礼芸術 INフランス01

学生時代にはじめてバックを担ぎ、旅にでた。それから、インドへの独り旅までが僕の本当の旅だったように思う。それ以降は、何かしらの目的があって、旅に出た。

思い返してみると、ぼくの旅のすべてに芸術がかかわっていて、憧れた人に会いに行く感覚、もっと近しく感じているときは恋人に会いに行く、そんな旅だったように思う。僕には芸術は、アートと呼び変えられるような軽いものではなく、ある種の宗教に近い、絶対的なものになっている。だから、旅は、僕の中で、巡礼以外の何ものでもない。

だから、『巡礼芸術 』 と名付けた。巡礼芸術とは、故人となった芸術家のゆかりの地や芸術そのものに触れたり、アウラを感じることである。息遣い、つまり魂の息吹、エネルギーをどう昇華していったのか。それは、キリスト教の信者がエルサレムを目指すように、イスラム教の信者がメッカを目指し、ひたすら歩をすすめるのと似たことだと考える。

ぼくはそれほどまでに芸術を信じているし、神がいないもの、すべてが神となるもの 、懐疑を持ち込んでも自由なもの、八百万の神やアニミズム信仰にも似たもの、『聖なるもの』、哲学的で科学的なものだと考えている。もはや、芸術が死んだ・・・という言葉があるが、その人のなかの芸術は指がさせる芸術であり、芸術は革命的で懐疑することも自由なものであるのだから、芸術は死にようがないのだと僕は反論しようとしたが、一概に、芸術の死は間違えとは言い切れない。なぜなら、『聖なるもの』の死を僕はひしひしと感じているから、アウラの帯びないアートがひろまっていることも感じるし、日本は大きなイベントがあるごとに、 『聖なるもの』 を殺してきていると感じる。目に見える形で言うならば、それは共同体の破壊と祭りの終焉である。伝統的という名をかりて、生き残っているものもあるが、祭りは大切な祀りごとが、現代の道徳や価値観で精査されて、つまらないものに(→消滅) された。

一切の虚飾を排した芸術と向き合いたい。そんなものがあるのか。もしかしたら、暴力的に空白をつくられた、枠をつくられたものに囲まれた現代的なものに対する抵抗なのかもしれない。

巡礼芸術をしようと、決めて行動していたわけじゃないが、ぼくは2018年6月にフランスのパリへ行った。

ジヴェルニーの庭にて