絵をかいたわけ

名前などいらない
壁に残した壁画が
知らない国、時代
過去でも未来でも
希望も想像できない
なか、とくに注目されるでもなく
目をおける
目をあわせられる
一人ごとをはける絵をかかなければと思っていた

よくよく恐ろしいことを当然と考えていた。
なぜ 絵をかいているか? 
いやなぜ絵なのかは
わからない
決まりごとなきがする

絵がなにか自分でしていて一番さえているというか、この世に身をおいてる
たった一人の自分を感じられるからのような気がする
本当のいみでひとりごとを
裁かれずに
言葉は裁かれるが
印象は裁かれずにすむ
あえて、選択してきたというよりはやむなく居場所になっていたきがする
高校から大学も
決まった答えでないとするとそこしか選択できなかった

何をおそろしいことかというと、自分が歴史に名をきざんでいくとおもいこんでた所だ

小さいころ、おじいちゃんが絵がすきで
建築家になっていたが絵が好きだった
この感覚を刻んでおきたいとよくみてた
そのころは
無心だったんだ

小学生、病院にしばらくいた
もうすでに死にそうになっていたあとの命だったから
そこから
余生だった。

万葉集 詠み人しらず そういうたちいちでいたい
 へいにかきおいた のこさなきゃ へい 
そのえはどこかとおく 
大学あたりまではそう思っていた
誰が作ったかわからない万葉集のうたみたいでありたい
 でも、残りたい刻みたいと考えていた
絵という美術品というより、壁画、や
万葉集のような歌
言葉をかきつられたようなある何者かのひとりごとでありたい
戯れ言ですよ
だけど残りたいという不気味さをもってた、

技法はない
一応、日本画の顔料とか使う。日本画のひとからみたらなさすぎる 画用紙やアクリルを多用している
予備校の範囲だ
日本画を当然に使うには10年くらいかかるとおもう
きれいにかくとか
上手くなる必要はないと思っていた 
絵本をはじめて、こう伝えたい
など話しにそううちに、表現を意識するようにはなった
スタイルがいるんではないか
とか
あるいは、人に説明しようとすれば、予備校のデッサンや少々日本画の顔料をふりかけみたいに使ってるが、誰でも1日で出来るようなことでさしたる技法というプロフェッショナルな部分は持ってない、その時おもいついてやるだけで技法にこだわってないし
やり方もおぼえてない、
ローラーやたらしこんだり、あとは洗剤やコーヒー泥一時は
人がつちや
血を、とちくるたようにいれてみたが、
実のところ調味料をいれるようにたんたんとしていた
じっさい技法はなくとも
日本画じたい、堆積してきた、
絵の具自体、化粧みたいに呪術てきだ
しかし呪術がすきそうで美大にいくまえ自分は数学、物理などが好きでどこかで呪術とか卑下してる部分があるようなきがする
自分の美意識を
追求する
人もいるとおもうけれど私の場合はそれはなく、むしろ美をおいかけない
意識しないところにあるいは美がやどるならあると考えていた。
堆積したものが 
技法におとしこんでとかでなく 
出ていく 
この川の流れにそって水をひこうとしたら橋を堤防を蛇口をぶちこわして出てきた
そういう勢いがいい描かざる得なくなってやればいい
あらわれてきえていく

とらえる

とにかくスピードが大事 

かたちなないものを形にまとめる 
絵のなかにつかまえる

えのほうが かたりかけてくる 

台所でかいたり 
当然えのほうのタイミングではじまるので身をととのえたりはできない
とじこめられる 

ドトールによくいっていた 
池袋とか人が多い
朝の空気、がいい
自然とかより、朝も昨日の余韻がのこるしなびて日にてらされる朝がいい
大学で大体のサイズ
絵の厚み
密度は学んだきもする

我にかえるのもいやだが、美術は芸術は
人生を謳歌するもなと大学以降は考えていて、それまでというのは実態のない世界で生きていたのかもしれない
歴史だとかこの世だとかそれに触れる手前の浅瀬をふらふらしていて、

やっと最近
日常の中に自分が消え去ることができたりしている
大学以降、展示をはなんどかしてるうちに
「詠み人しらず」
でありたく、でもかきおく壁がいる、展示をしたい気持ちは
かわっていく

頭を無視して体をとくに左手の声をあまりきかないから
左手にスーパーなどで好きなものをかう
ゲームなどさせていた
頭を使わないで手が動くようなものをかわせると、全く普段かわないようなものをかごに入れる
左手は
野菜やお菓子かわいいものを好む
そのえんちょうであるいていたら画廊に入った
書き残して、自分はきえるかべではなく
土俵を用意、そこで一言はくなり、したい意欲がでてきた

あと絵について言葉にしてるなかで
思いついたけど
自分の絵は
芸能人のポスター
だとおもう、
浮世絵、写楽などは歌舞伎役者のポスターだ
それがいちばん近い
と思う
人ならずものその人自身が聖域なりパワースポットであるもの
説明するとき普通のひとをかいたといったが、やっぱりそうではなく自分にとってはでもなくすごいておもったひとをかいている
モデルというかかかせているひとがすごい
でもあくまでよりしろでそのもでるを

このはなしをしていいかわからないが
呪符といえば
かいていてかたづけができなくなり
お札をはったことがあり、1日でお札がとぶ、目の前で壁からぶっ飛んだことがあった、
かいていいかわからない結界

なににたいしての結界でおそれ 

誰かにみられてる 
この世 

ひどくいけないかんじ 

見つかったかとおもう

隠れていたい身をまもりたい
生きていくのにすごく勇気がいるときがあり筆一個おけない
そのたいじが大事なきがするが
かかなきゃいけないきがする
そう進まないときは
絵や人生が喋りかけてくるのをまったほうがいい 
自分の小さなものさしでそれらを閉じ込めようとするのはつまらない

美術的な要素は 
なくなってるとおもう  
動物的な縄張り 呪術自己愛 

そういった
動物的なものに支配されず美術 
をやる

(絶望的なものや
何か意志をたもてなくなるのは何も
貧困や差別 病気 
老いでもないのが なんとなくわかってきた )

いまでは曇りは曇りで美しいと思うが 
人工骨をいれていらい 余生みたいに思ってた自分にとっては 五体満足でチャンスがあるものというのは もうそれだけで祭り だとつくづく思っていたので 
それを伝えたく本を作った 
実際は五体満足でなかったとしても生きていて心が折れていなかったら本当のところ 何かを達成したり 目的を見つけたりすることより 可能性にあふれていることは 祝福されているとおもう 

私自身は自信まんまんつくったけど 
必要ともされてないきはした 

ギャラリー新宿座で 飯田くんが絵を展示企画してくれた 

そのとき 書き出してかけなかった絵がある 
(ねっとにおちてる)
 はれたらお願いします
目をあわせられる絵 居場所をあたえる絵でなく 

灯火 松明みたいに 
照らす絵をかきたい 
暗闇のなかに

人間という 中年のいきものがいるとおもう 

それいじょうはわからない 
成長しないとかけない 

20代使命感にかられてたけど

人それぞれやることはあって
それを忘れても
やるんだし
そんなんでありたい 
ここだけどここじゃないどこか
茂みの中で
割れ目からあかちゃんが誕生する
世界ができる
全てがそこにある
楽しさも
かみも 食べものも 名前なんてないけど全てある 
茂みから王国もできる ときに戦争も 
でも
人間て洞窟や茂みにかくれて その隠れた場所で はぐくんできた 
私 すごい 赤ちゃんなんだから 

何もたない 可能性をもって うたれてくる 
ラスコーのへきが
洞窟に
闇のなかにきっと人間すんでた 
明るいとこであった 動物たちとの楽しそうな出会い 
遊び 

それをかきしるさなきゃならない心 

明るさの中にでてきてわけがわからなくなったら 

一度おうちにかえればいい