ノーウォーという 奇跡2012

このイベントが 
最初に飯田くんと会ったイベントであるといっていいだろう 見にいったことはあった、 
知り合う前 何回か稽古にいき この企画に出た 
踊りの企画ではない ノォーウォー、まさにそのまま、戦争をなくす、飯田くんは長い間、この戦争をなくすダンスというのをやってきた
ノォーウォー
毎年
8月
夏の暑い時期に横浜の美術館開催され、一週間ほど展示されている
絵、立体、インスタンレーション、映像
パフォーマンス、

ごちゃ混ぜに、

プロアマとはず、手法も問わずなので、カオスになっている
飯田くんは、シュガー・ライス・センターという団体でそれに参加した。

だけど、飯田くんは戦争反対ではなく、
政権批判や護憲や部分で捉えていなくて、

『戦争をなくすダンス』は世界中のことを言っている。

私はそれに混ぜてもらった形だ

戦争をなくす
殺人鬼のような狂気、純粋さ

言葉がつたわらないような
レインコートを頭からすっぽりかぶっていたが飯田くんからはつたわった
床でたおれていると
そこだけ雨がふっているようなレインコート男が
隣にたち
そのあと、絵やいる人間をくっつけたり破壊をくりかえした
聖なることをするように

飯田くんは自らの絵を全部破壊した

これが
ある意味
最初の出会いだった

それは全てに 
破壊的 

空間は 政治的なものや比喩的なものを含め、戦争に関係するものなので
戦地にいるような
気分になる  
特に 日常的なあらゆる条件を脇に置き、踊りの身体としてたってたりするとだ 

レインコート男の聖なる破壊 破壊しか 
知らないような恐ろしさがあり 
レインコートの男のまわりだけ降る雨は 泣けない涙のような悲しさのようだった 戦争は まるで 
全部自分が 悪かった 自分のせいだといわんばかりに

過去に書いた絵 
秩序を壊していく 
それが悲鳴のように叫びのように 
声のない分 響いていく 

その廃墟と化けした
絵の パネルが剥き出して折れてるあとちでは 倒れ 苦しむ 
傘をもって踊ったり 
手をつないで歩く振り付けがあり 
シュガーライスセンターのぺちかさん中川くんが踊っていて 私もそれにくわわるような形で床にはいつくばったり 
人形、死体のような気分になってくる

戦争が雨に 
そう 飯田くんは 
戦争自身のようにたってた 
戦争が雨に打たれてる 

その横で手をつないでどこからか逃げたりしてた

戦争を知らない 
でも私たちの世代はまだ 架空なほど遠くはない 
おばあちゃん おじいちゃんは知っている 戦争の呪縛のなかにいきている 

ついたいけん などできるものではないが 
どこかで 受け止めるなりしたいのかもしれない

そう意識しようがしまいが、飯田くんの身体のなかにも戦争がある

バラバラになった絵たちは 身体 
身体を失った分、絵の魂は 衝撃波のように回りに飛ぶ

戦争自身は自分を恥じるように、また
周りを遮断するようにレインコートをきる

口づけのように破壊をする 救いがそれしかないように 
反転 矛盾するように戦争を抱きしめる飯田くんと 
戦争自身 行き場のない 雨に打たれたままの戦争が いまだ 
歩いている 
そんな横顔もある
その横顔の飯田くんがいる

なぜ産まれてしまったのか?
感情的なものでわりきれない必然に産まれたように
むしろ産み出されたように答えそうだ

とんでもない機械や原子力 を巻き込んで人間的なレベルではない 代物に思えるが 
戦争自身になったような飯田くんはもろくむきだしのようだ 
戦争のせいよ

でも 戦争に全ての悪さをきせ 
自分自身の悪さに本当はみんな辟易してるのかもしれない 

レインコートの下に何をかくしている? 世界を根底から変える力?
知識? 
でも どっかでそれをもつ自分をもてあましている 

孤独だ 

平和はもうきた
戦争がないからと
平和というのは実は積極的 平和ではない聖徳太子が わをもってたっとしとなし 
とした 
それはたむずかしい 戦争エネルギーは誰でももっているし それは 生きる力にも 
愛する力にもなりうる 
一人でいても平和に快くいれるかわきらない 
考えも言葉もちがう人がたくさんいたら 
聖徳太子は10人いっぺんに話をきいてさばけたという 
もうそうなると和するにも能力や技術がいるのがわかる 
平和とは本当はすごいクリエイティブなものでインスピレーション
閃きのようにこのばに全てをひびかせるものが あるはずで 
それは言葉だったり はなうだったり 
ときには ありがとうのひとことだったり あり違う 
一瞬のひらめきだと思う
花が開く
そのきせき 
そこに平和がある
当たり前のことが
奇跡にみちていること 

でもだれにでもかれにでもできないかもしれない 戦争のエネルギー も生きるエネルギーも違いはない ただ 戦争は戦争というのりものが大きくなりすぎて操縦できなくなった というより 戦争にすべてをきせたんだとおもう 

エネルギーは
間違いを起こしやすい 衝動的な 
でもすこし注意深くなればいい 

だからわるくならないようにエネルギーを矯正しようとする 戦争がない 
平和だ 
でも抑圧されていたらそれはかたちだけの平和だ 

今は花びらが
瞬間に瞬間瞬間満たされて 開花しなきゃいけない時代なのかもしれない 
戦争をなくすダンス
それは個人個人のとこから戦争をとらえる
自分はまず戦争になって身体が痛くなったら嫌だ
だから戦争をなくす
と飯田くんはいっていた

マチスの絵のように力強く飛びはねて 
飯田くん 中川くん 
ペチカさん 私も 
手をつないで回る 
スキップする 

マチスの絵はなんで かいたのか? 
力強い 人間 

何ももたない
裸は平和だ
そこには身分や 
よくみせるとかない 
服だってあるいみ 
武器にもなる 

抱き上げ  踊る

何か飽和した状態ではそれはおきず 
この踊りでは 
飯田くんだけが痛みをともなった 
自分の絵を破壊する 
記憶や結晶化したかった色彩に穴をあける 

でも穴をあけるから 再構築がはじまる 

いまだに その絵たちの残骸
破片が家にある 

戦争の廃墟で泥にまみれ てをつなぎ 
どこに行けばいいのか 盲目にはいまわってた 人形だか 死体だかわからないような どろどろが 

マチスの絵のように力強い 素朴な喜びに遊んでる 人形になれるまで 

シュガーライス・センターの踊りは
そんな願いも
感じた 

願いを込めたんではなく そう生きた 

個人個人が
生きることだと 
こめられてるきがした

評・宮田徹也 2012年9月23日