わたしは、どうして現在、舞踏家を名乗り、どうして自分の芸術に新しい名前をつけようとしているのか(舞踏論vol.1)

わたしは舞踏家を名乗っている。
まず,前提としてWikipediaより暗黒舞踏をひくと,

暗黒舞踏(あんこくぶとう)は,日本の舞踊家土方巽を中心に形成された前衛舞踊の様式で,前衛芸術の一つ。日本国外では単にButoh(ブトー)と呼ばれ,日本独自の伝統と前衛の混合形態を持つダンスのスタイルとして認知されているが,誤解または独自解釈も多い。 なお,現在は,「暗黒舞踏」ではなく,たんに「舞踏」とだけ呼ぶのが一般的である。「舞踏」には様々な流れがあり,舞踏がすべて「暗黒舞踏」なのではない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ここに土方巽と共に,大野一雄,笠井叡の名前も形成時期に大きく関わった舞踊家である。また,現在,舞踏がButohとして世界(海外)で知られるようになったのは,その弟子たちが大きな力となったことを付け加えたい。
ちなみにわたしは土方巽の奥さん,元藤燁子に師事した。
さて,Wikipediaでは辞書的に分かりやすく書いてくれている。

この辞書以上に,「舞踏とは何か」を説明したいのだが,そのまえに「舞踏家とはどうすればなれるのか」を考えていきたい。
というのも,この辞書にあるように,前衛芸術の一つであるから形を一つに留めておけないのである。形がないわけではない,そして,形があると言い切ることもできない。それが舞踏なのである。

バレエのような明確な形もなく,日本で生まれた舞踊であるのに,世界にButohと広まっているのに,日本に舞踏学校すらない。舞踏家が行うワークショップや私塾のような場所で習うだけで,しかも,舞踏家ごとに形態や重視していることが異なっている。だから,舞踏が一般的に流布しない一つの理由だと考える。また,舞踏が生まれた素地にアンダーグラウンドということが影響していて,閉鎖性と反社会性の気分を帯びているように外から見えるのだろう。素手で触れない怖さがつきまとう。だが,これは,舞踏の魅力でもある。

日常的にわたしが舞踏家と名乗ったときに,3通りの反応をされることが多い。

  1. 舞踏を武闘と勘違いしている。
  2. 舞踏をダンス・芸術のジャンルとわかっているが,知識はそこまで。
  3. 舞踏を知っているからこそ,スキンヘッドで白塗りをしてウネウネ踊るとだと思っている。

「1.」の反応に関しては,もう訂正すらしないときがある。訂正するとしたら,一般的なイメージ,「3.」の話しをし,もっと深く知りたそうだったら,それ以上に自分の活動を話す。「3.」の話とは, 日本で知られている舞踏団体のことで,大駱駝艦と山海塾のことだ。
上記,舞踏を知っている方の大半は,2団体の白塗りとスキンヘッドのイメージを持つ人が多い。そこで話しが終わることが多い。
「2.」の反応は,上記,2団体も知っているので,舞踏を説明するというよりも,ざっくばらんにわたしの活動を話すことが多い。
「3.」の反応にも,同様にわたしの活動を話し,スキンヘッドや白塗りをしない人もいて,わたしもその一人であることを説明する。

このように舞踏には先行イメージがある。
たとえば,写真家の場合,写真をとっている,写真家であると話したときは,どんな写真を撮っているのかを話せばよい。どんな写真というときに,言葉にしづらいことはあるかもしれないが,そこに舞踏のような先行イメージはないだろう。
そして,この先行イメージが負荷となり,先行イメージゆえに舞踏を見ないと最初から忌避する人もいる。演者側では,舞踏を習ったが舞踏家を名乗らない方も見受けられる。

わたしに限っていえば,どうして舞踏家を名乗っているかというと,舞踏家の元藤燁子のワークショップで命が閃き,大野一雄の踊りに感涙に咽び,舞踏をしている方々の踊りが個々まったく異質に感じ,そこに不可解さと同時に自由さを感じ,神秘性と可能性を見出したからだった。
これは今も変わらず,舞踏家を名乗る強い動機となっている。

「わたしは,どうして現在,舞踏家を名乗り,どうして自分の芸術に新しい名前をつけようとしているのか」の問いの答えには,まだまだ辿り着かない。そして,この問いの終わりには,新しい名前を付けるという大きな課題もある。

次回は,この強い動機付けから舞踏家を名乗ったわたしがどのような活動を展開してきたか語りたいと思う。