小学校のころから古本屋に入り浸っていた。
駅前に現在もある古本屋が二軒あって、店の前に、1冊50円、3冊100円、10冊200円という投げ売りの商品がうず高くつまれていた。
小学校の子どもだから、最初はドラえもんや古いマンガ本、どうして安いかと言えば、売り物にならない、カバーがなくて、醤油のシミがありそうなボロボロのマンガ本。だけど、ぼくからしたら、それは宝の山で、読めればなんでもよかった。そのなかには、松本零士のいまならプレミアがつきそうなものもあって、渉猟していった。
中学生になると、マンガは自分の好みが出て来て、選ぶようになり、すこし背伸びをして、文学作品に目がいくようになった。そのなかで、緑の文庫本サイズで箱つきのゲーテの詩集があった。捨てた覚えはないのだが、いまは手元になくて、寂しいのだが、高校時代まで事あるごとに読み直していた。
高校の卒業文集に、ゲーテの詩を引用してインテリゲンチャぶったりしていた。高校の友人は「お前は茨木のり子の詩が好きで暗唱していたよな」と言われたが、そうだったけ?と当の本人は覚えていなかった。それで、茨城のり子を買った。
そういえば、ぼくは詩が好きだった。
大学の入ると、萩原朔太郎の「月に吠える」の序文を思い出して、
詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。
この言葉が好きで、とても科学的で、心理学を専攻していたから、この言葉はつまりは心理学は死んだ学問であると言われているようで、胸にささった。
生きたもの、学問が学問をしているもの、研究をしているものだけになってはいけないと言われた気がしたのだ。
あと草野心平が、顔が好きだった。
中原中也のギョロとしたハンサムなものじゃなくて、どこか親しみのある表情がたまらない。
詩は、大学生になるとあまり読まなくなった。演劇をしはじめて、戯曲を覚えるのがいそがしいのと、全然、映画をみていなくて、演技の勉強をしなければならないと切迫感にさいなまれていたのだった。
このとき、松田優作の「野獣死すべし」や三船敏郎の「生きものの記録」、三國連太郎の「復讐するは我にあり」の演技をみて、ショックを受けたものだった。
映画については、また、後日書きますが…。
詩から小説に移ったのは、大学受験が終わったころだった。現代文の科目に、文学作品を覚える項目があり、坪内逍遥から始まり、明治大正昭和の文学が一覧になっているものがあり、そのタイトルとどんな小説かを覚えなければならなかった。
受験生の諸君は、いまも変わらず、丸暗記していると思うが、当時のぼくもそうだった。今思うと、馬鹿らしいが、当時思っていたことは、はやく本物が読みたいと思っていた。
それで、古本屋の話しに戻るが、合格発表されて、親戚のおばちゃんが入学おめでとうということで、お小遣いをくれた。
それで、小説を買おうと、最初に買ったのが、武者小路実篤と川端康成だった。
理由は、安売り本の中にあったからで、ハードカバーで5,6作品入っている厚めのものだった。
武者小路実篤は知っていた。受験しているときに、塾の自習室で別の高校であった彼が受験勉強せずに学校の課題図書の武者小路実篤「友情」を読んでいた。ぼくは必死に英単語か何を覚えている中で、「馬鹿だなぁ~、どうして、こんなことになっちゃんだぁ~」とか、読んだ今となっては、おそらく主人公の側に立っていたのだと思うが、とてもうらやましく、だけど、こいつ大丈夫かなと複雑な気持ちで彼をみていた。
川端康成はノーベル賞授与の写真が社会の資料集か何かに入っていた顔を知っていた。
二人の作品を読んだのは、このときが初めてだったと思う。
最近、石の話をしていて、Iくんという縄文の研究者が石について、石の夢について熱く語っていたときに、そういえば、武者小路実篤に「馬鹿一」という作品があって、石を集める男の話し。「真理先生」も「馬鹿一」とつながっているという記憶がある。ぼくは 「馬鹿一」 をとても面白く読んだ。
川端康成は、「伊豆の踊子」から読み始めて、これは女子を追いかける話で、男目線。あまり共感しなかった。ぼくが好きだったのは「ほくろの手紙」です。
ほくろをいじる癖があり、なんだか、ぼくにはほくろを擬人化しているように思えた奇妙な作品で、 川端の読んだ中で、一番酔狂な作品だ。
文学は、この二人から始まり、
舞踏の作品にもなった小説もあるが、それはまた次回に。