わたしの舞踏とは…。(舞踏論vol.2)

2005年5月 デザインフェスタVol.21
飯田晃一の墨踏 photo by Yoshikazu Ozawa

次回は,この強い動機付けから舞踏家を名乗ったわたしがどのような活動を展開してきたか語りたいと思う。 と、書いたが、その前に。

「舞踏とは何であるか」という問いは、すべての舞踏家の課題でもあり、公演や踊りはこの問いの答えでもある。すべての舞踏家は、からだで答えを語っている。それはバレエダンサーも同じである。

わたしは、この問いに対して、「わたしの舞踏」という言葉に引っかかっていた。どこか逃げた答えだと思っている。「わたしの舞踏」と言えば、それ以上、突っ込まれることなく、相手も「はあ、そうですか、あなたの舞踏なんですね。わかりました」と話は終わる。終わるというのは、それ以上の対話は生まれないということで、固定されてしまうということである。

前衛芸術は、流動し、漂泊し、固着しないものだと思っている。脱皮しつづけるのだ。

2005年5月 デザインフェスタVol.21
手前は武田尋善のオブジェ制作、奥は飯田晃一の墨踏
photo by Yoshikazu Ozawa

ダンス、踊りが好きだ。その好きをカタチにする。公演をする。結構なことだ。だが、舞踏ということと、「これが好き!」は別問題だ。

好きとか、嫌いとか、思い出があるとか、土方巽や大野一雄の踊りの素晴らしさや感情や思い入れなどなど、すべて( )にいれて、舞踏の本質を語れないだろうか。エポケーして、真の舞踏に迫れるのではないだろうか。

挑戦しつづけるしかない。そして、固定しない。より本質に迫っていく。「わたしの舞踏」という答え方をしている人がいたら、それは間違えではないが、少なくとも僕は納得しない。