「ぼくはいる」 絶賛販売中

ぼくはいる

『ぼくはいる』という言葉は哲学的に聴こえる言葉かもしれません。
「ぼく/わたし」とは何か?そんな哲学的問いに関係なく,子どもはモノを触り,口に入れます。存在しています。しかも圧倒的なスピードで。『ぼくはいる』は,子どもにやさしく語り掛け,大人には真剣に迫って来る。

【制作過程/内容】
イーダトモコが絵を描き,イーダコーイチが言葉を付けた夫婦で作った絵本です。
元々,トモコは日本画家で,大きな絵を描いていましたが,子育てで忙しく時間と,スペースがなくなって,いままでのようにいかなくなりました。だが,子どもとの時間が中心となり,いいこともありました。それは今までなかった観点で景色やものごとと出会うことができるようになったことでした。散歩から帰ると,子どもの好きなものを一緒に紙に切り絵で貼り付けて,
「ちょうちょがいたね,きれいな花が咲いていたね」,うちの中でもう一度散歩をしました。
そして,それをまとめて絵本の形にして,子どもに読み聞かせをするようになりました。
何冊かたまった絵本,それこそ子どもとの落書きから始まった絵本でした。
そこには,時間の変遷もありました。
幼稚園へ行くようになり,次男が生まれ,大好きだったおじいちゃんがなくなり,季節が移り替わり,海へ行き,山へ行き,海外にも行きました。家族の形も変わり,赤ちゃんで言葉も話せなかったのに,だんだん言葉も増え,いろんな経験を口にするようになりました。「ねぇ,ねぇ,見て!聞いて!」と。
家族が増えたり,減ったりする中でも,子どもは大人に閃かせつづけます。
コーイチは,そんな家族の変遷を通じて,子どもが世界と出会い,またどこか別の世界へ行くことを考えて,言葉を紡ぎました。
絵本の終盤にある彗星の絵は,長男と会社の名前から新たに絵を描きました。
流れ星に願い事をし,いなくなった人に想いを馳せる,
そんな彗星に『ぼくはいる』と言えたらいいなと。
そんな想いを込めました。

【コンセプト】
自我の確立する年齢,つまり,自分を自分と認識する年齢は,鏡をみて自分とわかる年齢だと言われています。
つまり,2才ぐらいになると自分を認識できるということになります。
それから,「わたし」という自我となってくると,それはとても長い期間がかかります。
いわゆる,アイデンティティと呼ばれるものです。
幼少の期には,自分というものに,価値があるかどうか,存在の濃淡など考えませんが,
大人になる過程で,様々な事象にぶつかり,それによって自我に目覚めていきます。
自殺の原因は様々ですが,存在の希薄さを感じたり,自分の無価値にとらわれるのも一つではないでしょうか。わたしはいない,わたしなんかいなくてもいいのではないかという思いにとらわれてしまう。自殺者数は2017年現在でも,年間2万1140人もいます。8年連続減少しているそうですが,この数字もまだまだ少ないとは言えません。この中には未成年も多く含まれています。
自分に価値があるかどうかなんて,関係なく,いまを生きる。夢や希望がなくても,生きる。強い意志を持たなくてもいいと思うのです。
子どものむき出しのエネルギーがどこかでなくなってしまう。むき出しのエネルギーではなく,理由のある/目的のあるエネルギーを持ちなさいと言われる,むしろ,エネルギーは出さなくてもいいと言われているような感覚さえ覚えます。
最初に,人々の間にいる,歩く,食べるなど単純な動作から出発しているのは,根本的な行為により,自己を確認していくことが大切なのではないかと考えたからです。
この絵本を読み聞かせているときに,子どもの行為そのものに新たな気づきを得られるように,後半は行為にフォーカスして,主語をなくしたのもそのためです。「ぼく,わたし」という主語を脱落させたときに,日本語では,その主語を補います。
たとえば,ワニがいるページで,「たいようもたべる」としたときに,「ワニが太陽も食べる」と見られますし,「ぼくは太陽もたべる」ともできますし,更に,太陽にフォーカスすると「ぼくもたべるし,太陽もたべる。」ともなります。

日本語で主語が脱落しても,意味が通りますが,英語など多くの言語では主語の脱落では意味が通らなくなります。この部分は日本語の特徴でもあります。わたしはいるんだけど,わたしはいない,では,どこにいるのだろうか。
「わたしはいる」,「あいだにいる」とリズムよく言葉遊びのようにページをくくりながら,「わたし」の行方を辿り,行為へ移り,星に願いとなり,ただまっさらの『いる』とページは終わります。
内容のところでも書きましたが,絵本の終盤にある彗星の絵は,流れ星に願い事をし,いなくなった人に想いを馳せるということを考えました。日本のみならず,世界にいる子供たちへの祈りでもあります。どうか健やかな生活がおくれるようにと。
コンセプトよりも想いと願いのほうが強く,上記で書いた制作過程の中で,産み落とされました。子どもたちの記憶に残るような絵本になれば,作者としてこれ以上の喜びはありません。