「ぼくはいる」制作にあたり

ぼくはいる
を 製作してたころのことを 思い出すのが 何か少し 苦しい
重い箱を あけるようだ
自然 太陽の光
その頃 旦那のお父さんが 闘病し、 亡くなった 引っ越し
強烈だったのかもしれない

それと 同時に
楽しかったと 一緒に いたことが 思い出されると 無尽蔵に パラパラと何枚も
ページが めくられ
ページが飛び交いし
そのまま
楽しかったと 昇華され 色あせて しまいそうな 気がして
生きたまま 封印しておきたい きがしたのだ

ぼくはいる
をはじめたきっかけは、それは直接的にはあるのだが
無力感ではないが
言葉にしたかった

「絵」
果てしなく 毎日公園や 森のようなとこにいき ご飯を食べて寝る
楽しむ そうそれこそ楽しむというふうにいれば 良かったのだが
息子をたのしませようとして
逆に子どもの純粋すぎる感覚に 溺れてた 気がする

変なはなし
私がいなくなって
ぼく 息子がいる
そんな時間だったんだとおもう
完全にのみこまれていて
それへの抵抗
無力感 すごい世界に産まれてきた いろんな感覚を 与えられることに たいして
せめて 私はこう感じると 牛耳りたい気持ちがあった 無力感は
いまおもうとすごい
すごいものには
ひれ伏したほうが いい 降伏
楽しむとは そういうことだ
飛び込んでしまうとしかし 昇華してしまう 一体なり

だから好きなことがらに たいして
対峙する
緊張感

抵抗する
ということで
絵をかいているのかもしれない

いいものを 身に付けるから クラシックをきいたから 質がよくなるわけじゃない
対峙する
開かれてたら 不安も緊張もいろいろはいってくる
そこが 質を 生むんだと思う
絵に対する 姿勢
態度とかが でる
上手くなるとか工夫は
いるかもしれないけど
そんなに重要で ないのかもしれない
でも生きかたとしては
降伏して生きていたいというのがある

人として どうか

こんなことわらってしまうけど

対峙する とか 云々より
読んでいて
世界にはいっていけるか 絵のなかであそべるか
が 絵本は
大事な気が
した