『岬の兄妹』-生と性、貧困、売春-

阿佐ヶ谷ユジクで『岬の兄妹』を見るんで、始まるまで散歩していると古本屋を発見。ああ『狩猟伝承』欲しかったんだと隣に田中順三著『土偶と鮒』というタイトルに惹かれて手に取る。

帯に「大切にされたり、粗末に扱われたり、骨董は人の運命に似ている。古物に走らされた人たちの面白くて、やがて哀しい人間模様。」とあり、

棚にニ度戻したが、「古本は縁で買え」と声が聞こえ、購入。

そのあと映画『岬の兄妹』を観に行く。
見ていない方はネタバレもあるので、何かバレて困ることはないが、そういうことに繊細な方は映画を見た後で下記をご覧ください。

兄と妹という点で中上健次の『岬』を思い出すが、話しは違う。兄と妹が出てくるところと、生々しく儚く、だが、逞しい生活を描いているところで似ている。
映画として、よくできている。激しさや生々しさを強調すると、一方で、だらだらと長く感じる映画もある。だが、この映画は急いでいるわけじゃなく、淡々としているわけでもなく、ハリウッドのようなあっという間に終わったということでもなく、終わる。終わり方も、後味が悪くもなく、その後を繊細に考えさせてくれる。

貧困から来る犯罪。犯罪も死ぬための犯罪ではなく、生きるための犯罪。
一般的な格差社会という言葉では置き換えられないのではないか。
痛みを感じるし、だれよりも必死だ。肉体産業、肉体労働の売春。
家族の絆、絆というとこそばゆく、穢れがないように思ってしまう言葉となったが、穢れなき絆があるだろうかと思った。
売春という仕事は、穢れているのだろうか。そこまで考えさせられる。
生きることに必死になれというが、人はなかなか必死になれない。

お金にけつをたたかれて、なんとか仕事をする。
電気料金をとめられて、食べるものがなくなって、やっと気づき、動く。
最後に兄弟( 兄・良夫と妹・真理子 )ができる仕事が売春であったのだ。

電気料金が止められたことがある人が映画をみている人で何人いるのだろうか。ライフラインというが、ぼくが最後まで残したライフラインは電気料金ではなく携帯電話だった。そして、最後、携帯が使えなくなって、なんとか仕事をみつけた。

良夫 の背水の陣がよくわかる。監督もこういう経験があったのではないかと、似たような経験はしているのではないかと思った。

売春と一言では言えない。
客は、トラックの運転手、やくざ、一人暮らしの老人、小人症( 著明な低身長を示す病態のこと )、いじめられている中学生がいる。
客、それぞれの佇まいが、 真理子 と肉体が重なるときに、本音や本当の顔が見える。情けなさ、強さ、やさしさ、だが、それが生活に一度もどると、本当が嘘になり、嘘が本当になる。嘘とか、本当とか、あるのかと突きつけられる。

暴力性はあるが、暴力的ではなく、やさしさと憤りのエネルギーの発露としての暴力があるのだ。

映画や舞台、芸術は、日常生活の延長で生きていることの延長で、
古本屋への散歩の途中で、映画が終われば日常生活へ戻る。
これを観たから、ぼくは強くなるわけでもなく、映画料金以外のお金がなくなり貧困になるわけでもなく、ゲキテキなことが起こるわけでもないのだ。
ただただ一瞬どこかへ連れていかれる。


とてもいい映画だったとすべての人にすすめられない。人をみて、すすめたいと思う。だが、多くの人にみてもらいたい。そんな映画だ。