日本語教師01

日本語教師の資格は何種類かある。通常は、420時間の日本語教師養成講座を修了すること、もう一つは、日本語教育能力検定試験に合格することである。

わたしは前者を選んだ。
はやく資格を取るなら、半年や3か月でとれる講座を受講できるところもあるが、ぼくは敢えて、というか状況的にゆっくりと取得することを選んだ。
理由は、金銭面と時間であった。3か月なら50万円ぐらいを少なくとも3か月で納入する必要があるからだ。だから、ぼくは分割で納入できる『朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾』を選んだ。

もう一つの理由は、時間であったが、舞踏の公演やアルバイトがあり、叶わなかった。

じゃあ、どうしてそこまでして、日本語教師になろうとしたのか。
そこも二つの理由がある。
一つは、ずっと日本語教師にあこがれていた。元々、19歳のときにトルコ・ブルガリアを一人旅して以来、外国人と関わる仕事にあこがれをもっていた。大学を卒業してから、日本語教師をしている方を会ったら、給料も安いし、授業の準備も大変だしとぼやきを聞かされ、そうかとあっさり諦めた。
けれども、それがずっとひっかかっていた。アルバイトは肉体労働か、苦情対応だったので、続かない。舞踏公演ごとにアルバイトをやめるものだから、どんどん条件が悪くなる。
そうならば、ずっと憧れていた日本語教師になろうと決めたのだった。
二つ目は、舞踏は身体表現であるが、言葉のダンスでもある。
それは土方巽著『病める舞姫』を最初に読んだときから今になっても変わらない一つの舞踏の見方である。
かと言って、日本語を教えることと直接結びつけることはできない。
言葉についての興味は、人と話をすることへのコンプレックスから始まったのだと思う。
幼少時代は、お笑い、特にドリフターズのコントが好きだった。高校時代から落語のCDを聞いたりしていた。今おもうと、話し上手になりたかったのだと思う。
日本語教師の勉強をはじめるまえに、単純に言葉への興味を持ったのは、たまたま手にとった丸山圭三郎著『言葉と無意識』であった。丸山圭三郎にはまりソシュールを直接読み始めたりしたが、丸山圭三郎の語り口と言葉へのアプローチに魅了されたのだと思う。
日本語関係の本で言えば、 三上章 著『象は鼻が長い―日本文法入門 』である。当たり前に使われる『主語』という言葉への問いかけ、疑問を投げかけた。日本語に主語はあるのだろうか。
英語を習うときに、『I』を主語として、『わたしは』と対応させる。それが本当か。
日本語を教えるときに、主語や述語という用語を使わないで教えるのだが、日本語の構造の話しを熟考して教えるのと教えないのとでは違う。

日本語教師は何を目的としているのか。
日本語という言語を使えるようにする仕事である。
ちょっとした助詞の違い、言い間違いで全く別の意味になるし、敬語がつかえなければ、失礼なことにもなりかねない。
日本語学校を出て、どんな社会へ行くかがポイントで、その社会に応じて使う日本語が違うわけだが、基本+専門用語で、日本語学校は、『基本』のみ教えることになる。
だが、学生の目的は、大きくわけて2種類ある。
1、大学、大学院進学の受験
2、出稼ぎ

1の場合は、簡単で日本語学校を予備校的に考えて入学してくる。日本語力を上げながら、受験という目標へ向かうのである。

2の場合は、出稼ぎと書いたが、日本で単純に働きたいが、ビザが下りないから仕方なく日本語学校で学生ビザを取得し、さらに次の専門学校も学生ビザを取りながら働くのが目的ということである。つまり、就労ビザをとるのが難しいので、仮面留学生と言ってもいい人たちである。

1と2の問題点で共通しているのは、「仮面」ということである。


実は、1の場合には、「塾 VS 日本語学校」という縮図がある。

日本語学校をビザの取得のためだけに考えている学生がいる。
塾に通っているのは、中国の学生で、日本語学校の教師の話や指導に耳をかさない学生がみられる。そういう現実がある。

しかし、日本語学校に来なければならない事情が、ビザであり、出席率だ。
1と2に共通しているのは、日本に居たいという希望があり、それを可能にしているのがビザなのである。

日本語教師と学生との関係は、希薄かというと、必ずしもそうではない。
上記のような事情がありながら、心底真面目に日本語学校の提供する教育に熱心に取り組み、めきめきと実力をつける学生もいるのである。

そして、教師との交流も学びの励みにし、アルバイトにいそしみ眠い目をこすりながら、毎日学校に通い、出席率100%の学生もいる。
ぼくが指導した学生は幸運にも、熱心な学生に巡りあってきて、卒業後も未だに交流がある。

日本語学校の仕組み自体に問題がないわけじゃないし、ビザや法律に関しても問題が多くみられるのは確かだが、日本語学校でしかできない交流や教育があるのも確かで、そんな中で育まれる国際交流もある。

国際交流は、学生同士でもあるし、教師と学生との交流もある。多国籍な学校では共通語は日本語だけなので、コミュニケーション、冗談の言い合いや授業中の教え合うこともすべてが日本語だ。

教師は学生同士が話し合う言葉を聞いて、どれぐらい日本語が上達しているか確認することもできる。
ぼくは多国籍のクラスに入るのが好きで、しかも、それが分け隔てないのがいい。クラスは多国籍でも、席が分かれていて、飲み会も国が違うとよばれないようなクラスはとてもつまらない。

日本語教師の醍醐味は何か。
日本語を使ったコミュニケーションによって、クラスという小さい単位ではあるけど、世界が一つになる。夢のような世界を体験できる。
その世界に関われるなんて、こんな素晴らしいことはない。